黄鶯睍睆

二月に入ると、スーパーや百貨店はチョコレートで溢れかえる。バレンタイン戦争だ。お店の戦略に乗せられ、世の女子たちはチョコレート選びに奔走する。最近では、友チョコなどという代物も出てきて、更に忙しくなった。面倒臭い事に、友チョコは基本が手作りなのである。勿論、子ども達の間にもしっかり浸透している。我が家の小学生女子も、毎年友チョコを手作りするが、実際に娘が手を下すのは、溶け始めたチョコレートを完璧に溶かす事と、出来上がったチョコにパウダーをまぶす事、そして味見の三過程である。後は全て親の力作だ。友チョコの出現を嘆いている母親たちは、たぶん多い。

私が小学生の頃も、既にバレンタインは行事として定着していた。友チョコはなかったが、義理チョコはあった。ただし手作りではない。当時の小学生はみんな、本命、義理まとめて、近所のスーパーで調達していた。当時、自分が誰に、どのようにあげたのか、ほとんど記憶にないが、一つだけ、忘れられない思い出がある。小学校六年のバレンタインである。

六年生の二月、私は窓際の席に、ニシイ君と机を並べて座っていた。ニシイ君は、小学生のくせにシニカルで、難癖や嫌味を得意とする、非常に嫌な奴だった。常に落ち着きはらっているのも気に喰わず、私はニシイ君といつも口喧嘩をしていた。しかしバレンタインの日の私は違った。本命、義理と併せて四つくらいのチョコレートが手提げ袋の中に入っていたからである。学校からはチョコレートを持ってくる事は禁止されている。ニシイ君を怒らせて、余計な詮索をされるのは避けなければならない。いつもと違ってニシイ君の嫌味に何も言い返さない私を見て、ニシイ君は心なしかつまらなさそうな顔をしていた。

ところが、満を持して持ち込んだチョコレートを、私は本命の子に渡す事ができなかった。本命が誰だったのかも、なぜ渡せなかったのかも覚えていないが、一晩悩んだ末、翌日もう一度トライしてみようと、再びチョコレートを学校に持っていった。しかしなかなか渡す事が出来ず数時間が過ぎ、渡そうかやめようかと、心の落ち着かない私は、気分を変えるため隣のニシイ君に話しかけた。

「ニシイ君、あんた昨日チョコレートもらった?」

「うん、もらった。一個だけ」

「え、ほんと?!誰に?」

「お母さん」

ニシイ君は屈託なく答えた。お母さんて、と私は思った。それはもらった中に入らへんのと違うの? しかし何も言わなかった。ニシイ君が「お母さん」と、あまりにも屈託なく答えたからである。その瞬間私は決めた。

「そんなら私があげる」

「え……?」

「いらん?」

「いや……もらう」

私は手提げ袋から本来とは行き先の違うチョコレートを取り出し、戸惑っているニシイ君に素早く手渡した。ニシイ君も素早く自分の鞄に入れた。私は何だかすっきりした気分だった。

そのまま私もニシイ君もその事にはふれず、何事もなかったかのように午前が終わり、五時間目になった。運動場では寒風が吹きすさび、校庭の砂がくるくると円を描いて舞っているというのに、午後の窓際はぽかぽかと暖かかった。陽だまりの席で私が穏やかに授業を聞いていると、ニシイ君が私を肘でつつく。何よ、と眉をひそめながら振り向くと、ニシイ君は開いた自分の教科書を、ぞんざいに私の方へ押してきた。訳が分からずニシイ君を見ている私に、ニシイ君はしつこく教科書を押す。何だろうと目を落とすと、ページの隅っこの方に、殴り書きのような字で『ありがとう』と書かれていた。私は思わずニシイ君の顔を見た。ニシイ君は知らん顔で黒板を見ていた。

その後も、相変わらずニシイ君はシニカルな嫌な奴で、私たちはやっぱり口喧嘩ばかりしながら、小学校を卒業し、別々の中学に進んだ。以来ニシイ君としゃべった事は一度もない。しかし今でもバレンタインが来ると、あの暖かい窓際の席と、教科書の隅の『ありがとう』という文字を思い出す。

私が人生の中でもらった、一番暖かい『ありがとう』である。

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