夏至

一年で一番日の長い夏至が、梅雨の時期にあたるなんてどうかと思う。 中学生の頃、友達に文句を言った事がある。曇りや雨の日に、太陽がいくら長く出ていようと、何の意味もないと気付いたからである。 私は梅雨が嫌いだ。しとしとと降り、ぐずぐずと続き、じめじめとして不愉快極まりない。湿気のせいで、無性に顔が痒くなるのも、また腹立たしい。 高校の頃、梅雨時期になると、教室が微妙に臭くなった。まず教室のカーテンが臭い。そもそも学校のカーテンというものは、小中高を通して、ハンカチを忘れた男子のお手拭タオルと化しているのに、決して洗っているところを見たことがない。そのカーテンが湿れば、臭くなるのは必至だ。そしてもう一つの匂いの原因は制服である。制服は気軽に洗えない。夏服はブラウスやシャツが洗えるとはいえ、やはりズボンとスカートは無理である。洗えないままのヘビーローテーションに、誰のズボンもスカートも、もれなくお尻のところがてかてかと光っていた。一クラスに数十人のそんな制服が、みんなまとめて湿気を含むのである。爽やかな香りのする筈がない。 しかし、全体的には臭い制服の匂いも、個々となると話は別である。嫌いな子の制服はとても臭いが、特に思い入れのない子の制服は匂う程度、そして好きな子の制服はむしろ好ましい匂いである。嗅覚が脳に支配されている、とてもいい例だ。 高三の時、隣のクラスに仲のいい男の子がいた。ただの友達だったが、放課後に廊下で話し込んだり、帰り道で会うと、そこから一緒に帰ったりしていた。私は彼の制服の匂いが好きだった。少し埃っぽいような、日なたの匂いがした。そしてきっかけは何だったのか、六月のある日曜日、私は彼と映画を見に行く事になったのだ。男の子と二人でどこかに出かけるなんて生まれて初めての事で、私にとっては一大事件だった。 その日は朝から小雨が降っていた。隣町の駅から映画館まで五分程の距離を、私たちは並んで歩いた。私服のせいか、いつも見慣れている彼とは別人のような気がして、私は少しどきどきした。歩くたびに傘がぶつかるのも、何だか妙にくすぐったかった。普段より口数少なく歩いていると、横断歩道を渡ったところで、突然彼が私の肩に手を回した。私はびっくりして彼を見上げた。彼は私の肩を押して自分が車道側に回り、私の顔を覗き込むようにして、こっち側は危ないでしょ、と言った。私はまたびっくりした。男の子って、そんな事を気にかけてくれるんだ。男の子って、女の子を守ろうとしてくれるんだ。ひそかに感動して横を歩きながら、私はちらりと彼を盗み見た。傘から覗く彼の肩が、やけに広く見えた。そして同時にどことなく寂しげにも見えた。ところどころ雨に濡れた彼の肩は、制服と同じ匂いがした。 翌日、学校で会った彼は、私を見るなり安心したように笑った。 昨日雨に濡れたから、風邪ひいてないかと思ってずっと心配してたんだ。 あ、何か雨もいいもんだな。その日、私は少し雨が好きになった。 梅雨の日の、懐かしい思い出である。

春分

学校の体育館は寒い。小学生の娘が、寒い寒いとよくぼやくが、私も小学生の頃、やはり寒い寒いとぼやいていた。そんな寒い体育館に、それでなくとも寒い三月、五年生と六年生は度々集められるはめになる。卒業式の練習である。 今どきの子ども達は、場合によって暖かいダウン着用の上、ひざ掛けの持ち込みまで可らしいが、私が小学生の時代は上着の着用さえも禁止だった。私たちは寒さに震えながら、一糸乱れぬ起立着席や、卒業の歌を高らかに歌い上げる練習をした。 そんな歌の歌詞の中に、『育て、賢く丈夫にと、今日のこの日を待っていた、父さん母さん有難う』という箇所があった。どことなく昭和の匂い漂う歌詞だが、当時の私は、お父さんお母さんというものはそんな風に思っていたのかと感心し、それならお母さんは卒業式に泣くかなと、ちょっとワクワクしていた。 卒業式の数日前、私は母に聞いてみた。お母さんは私の卒業を待っていた?と。 「別に」 母の返答は早かった。私は、母が質問の意味を分かっていないのかと思い、少し言葉を変えて再度尋ねた。お母さんは私の卒業を楽しみにしていた? 「別に」 母はきょとんとした。私もきょとんとした。それから気を取り直して、もう一つ質問をした。お母さん、卒業式は泣くと思う? 「何で?」 揺るぎのない疑問形で母は答えた。私は大人しく引っ込んだ。 卒業式、やはり母は泣かなかった。最初から最後まで、にこにこしていた。気持ちよく晴れた、暖かい日だった。母は泣かなかったが、私は泣いた。明るい日差しの射しこむ晴れ晴れとした教室も、厳かに静まり返った体育館も、何もかもが寂しくて泣いた。女子はみんな泣いていた。先生も親たちの大方も泣いていた。すすり泣きの響く体育館を、『蛍の光』と拍手に送られて涙ながらに出た途端、私の目の前に大きな桜の木が飛び込んできた。体育館の前にある、六年間見慣れてきた桜の木である。 あ、今年はこの桜の花、見ないんだ。 そう気付いた瞬間、ふっと涙がひいた。友だちの泣く声や周囲のざわめきが一瞬遠のき、満開の桜が見えたような気がした。風がさぁっと吹き、私は空を見上げた。三月の空って、わりと青いんだなと、その時そう思った事を今でも覚えている。 あの瞬間、きっと私は一つの時代に幕を下ろす切なさを、初めて知ったのだ。 今も春分の頃になると、意味もなく切なくなる。それはきっとあの時の青い空と、まだ咲いていなかった満開の桜のせいだと、私は思っている。 娘の卒業式には、間違いなく私は泣くだろう。

黄鶯睍睆

二月に入ると、スーパーや百貨店はチョコレートで溢れかえる。バレンタイン戦争だ。お店の戦略に乗せられ、世の女子たちはチョコレート選びに奔走する。最近では、友チョコなどという代物も出てきて、更に忙しくなった。面倒臭い事に、友チョコは基本が手作りなのである。勿論、子ども達の間にもしっかり浸透している。我が家の小学生女子も、毎年友チョコを手作りするが、実際に娘が手を下すのは、溶け始めたチョコレートを完璧に溶かす事と、出来上がったチョコにパウダーをまぶす事、そして味見の三過程である。後は全て親の力作だ。友チョコの出現を嘆いている母親たちは、たぶん多い。 私が小学生の頃も、既にバレンタインは行事として定着していた。友チョコはなかったが、義理チョコはあった。ただし手作りではない。当時の小学生はみんな、本命、義理まとめて、近所のスーパーで調達していた。当時、自分が誰に、どのようにあげたのか、ほとんど記憶にないが、一つだけ、忘れられない思い出がある。小学校六年のバレンタインである。 六年生の二月、私は窓際の席に、ニシイ君と机を並べて座っていた。ニシイ君は、小学生のくせにシニカルで、難癖や嫌味を得意とする、非常に嫌な奴だった。常に落ち着きはらっているのも気に喰わず、私はニシイ君といつも口喧嘩をしていた。しかしバレンタインの日の私は違った。本命、義理と併せて四つくらいのチョコレートが手提げ袋の中に入っていたからである。学校からはチョコレートを持ってくる事は禁止されている。ニシイ君を怒らせて、余計な詮索をされるのは避けなければならない。いつもと違ってニシイ君の嫌味に何も言い返さない私を見て、ニシイ君は心なしかつまらなさそうな顔をしていた。 ところが、満を持して持ち込んだチョコレートを、私は本命の子に渡す事ができなかった。本命が誰だったのかも、なぜ渡せなかったのかも覚えていないが、一晩悩んだ末、翌日もう一度トライしてみようと、再びチョコレートを学校に持っていった。しかしなかなか渡す事が出来ず数時間が過ぎ、渡そうかやめようかと、心の落ち着かない私は、気分を変えるため隣のニシイ君に話しかけた。 「ニシイ君、あんた昨日チョコレートもらった?」 「うん、もらった。一個だけ」 「え、ほんと?!誰に?」 「お母さん」 ニシイ君は屈託なく答えた。お母さんて、と私は思った。それはもらった中に入らへんのと違うの? しかし何も言わなかった。ニシイ君が「お母さん」と、あまりにも屈託なく答えたからである。その瞬間私は決めた。 「そんなら私があげる」 「え……?」 「いらん?」 「いや……もらう」 私は手提げ袋から本来とは行き先の違うチョコレートを取り出し、戸惑っているニシイ君に素早く手渡した。ニシイ君も素早く自分の鞄に入れた。私は何だかすっきりした気分だった。 そのまま私もニシイ君もその事にはふれず、何事もなかったかのように午前が終わり、五時間目になった。運動場では寒風が吹きすさび、校庭の砂がくるくると円を描いて舞っているというのに、午後の窓際はぽかぽかと暖かかった。陽だまりの席で私が穏やかに授業を聞いていると、ニシイ君が私を肘でつつく。何よ、と眉をひそめながら振り向くと、ニシイ君は開いた自分の教科書を、ぞんざいに私の方へ押してきた。訳が分からずニシイ君を見ている私に、ニシイ君はしつこく教科書を押す。何だろうと目を落とすと、ページの隅っこの方に、殴り書きのような字で『ありがとう』と書かれていた。私は思わずニシイ君の顔を見た。ニシイ君は知らん顔で黒板を見ていた。 その後も、相変わらずニシイ君はシニカルな嫌な奴で、私たちはやっぱり口喧嘩ばかりしながら、小学校を卒業し、別々の中学に進んだ。以来ニシイ君としゃべった事は一度もない。しかし今でもバレンタインが来ると、あの暖かい窓際の席と、教科書の隅の『ありがとう』という文字を思い出す。 私が人生の中でもらった、一番暖かい『ありがとう』である。