雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)

長くなった煙草の灰が、皺の寄った指先の制止をかすめて落ちる。「しまった」という表情の祖父の傍らに居た祖母が、嫌味をたっぷり盛って「言わんこっちゃない」という顔になる。まだ炎の残っていた灰は、こたつ布団のカバーに小指が通るほどの穴を開けて、幸いにも消えた。 「おじいさん、ほおらまたこたつ布団に灰を落として…」 「だからこたつで煙草を吸うのはよしなさいって言ってるのに…」 「煙草が心臓にも悪いってお医者様がどれだけ…」 さあ始まるぞ、と思いながら、座ったままこたつ布団を耳のあたりまで上げる。祖父の禿げ上がった頭が、徐々に怒りで赤く染まっていく。この祖父母を知らない人にはきっと、心臓に良くないだろう。 「うるさい!!!このくそだわけ、誰がこの家の主だと思っとる!!!!」 腹からここ一番の音量を出す祖父の怒声が、耳をつんざく。数十年を経て慣れっこになっている祖母はといえば、半ば面倒臭そうな、半ばからかうような態度で、轟きわたる罵声を意に介さず浴びている。二人がハッスルした時は、トムとジェリー並みにコミカルな追いかけっこすら始まった。 昭和の雷親父だったな、と、歳月に色褪せた祖父の写真を眺めやる。祖父の怒声はいつも桁外れだったけれど、怖かった記憶がまったくないのは、自分が初孫で愛されていたからだろうか。中学生の頃に、祖父が先に。祖父を追いかけるように…というのとは程遠く、あの人を食った態度で子供たちを何年も困らせた果てに、祖母も逝ってしまった。 すっかり暖かくなったというのにしまいそびれたこたつ布団を、あの頃のように耳まで上げてみる。今宵、春の嵐に轟く雷鳴はもしかしてあの二人かしらん、と、ちょっと笑いながら。

桜始開(さくらはじめてひらく)

  日付の回った交差点とは、もしかして永遠にタクシーを待つよう宿命づけられた場所なのだろうか。さっきから、彼女を乗せたい方向に向かうタクシーはこぞって客を乗せている。     かと言って帰りたいというわけでは、まったく、ない。むしろ、まったくもって、帰りたくない。酔い潰れる状態から2.5歩くらい手前で、彼女がさっきからにこにこと無防備な笑顔を春の夜気に振りまいている。数年来気持ちを押し殺してずっと保ってきた「友人」の、「良き相談相手」のペルソナはさっきからずっとぐらつきっ放しだ。   「ねえ、もう、いっそあいつに迎えに来てもらった方がいいんじゃないの」     横で上機嫌だった彼女が、不意にすっと身を強張らせるのが、見なくてもわかった。怒らせたのか。一瞬眼を伏せたのちに、心持ち強い眼差しで彼女が僕を見る。   「つまんないこと、言うのね」     思わずぞくりとするような、挑戦的な口調。と、みるまに表情がほどけて、小さな女の子がふて腐れたような顔になる。   「もういいの、あんな浮気男」     ああなんだ、結局まだ好きなんだな、と心密かに失望する。この二人につきあってもう何年にもなるのに、こうして自分から問いかけては、毎回真新しい墓穴を掘る。道路を駆け抜けていく車たちのライトを目で追いながら、つとめて無表情を装いながら。数年のあいだにすっかり親しんだ苦さを、また再び噛みしめる。         不意に、ばくんと心臓が跳ね上がる。はあ、という溜息が、僕の肩の上で聴こえる。彼女が、僕の左肩に頭をもたせかけていた。艶やかな長い髪が、僕の肩をするりと滑る。       「あぶない、よ」     声が上ずりそうなのを必死に堪えて、全身全霊で心配している振りを装いながら、彼女の肩をそっと抱き支えた。スプリングコート越しでもわかる、薄い華奢な肩。力を込めれば折れてしまいそうなこの肩を、きっと、あいつはいとも無造作に抱くのだろう。いつでも手にとって遊べる玩具のように。     そう思った刹那、どす黒い衝動が鮮やかに花開くのを感じた。気づけば我知らず、彼女を深く懐に抱き寄せていた。何かが、燃えるように熱くたぎる。抑えに抑えつけた果てに咲き初めた衝動は、身のうちで愚かに勢いづいて、僕に囁く。奪え。奪ってしまえ。     彼女が、少し苦しそうに手で僕の胸を押し返して、はっと我に返る。でも、もう、後には引けない。背中に回した手に、もう一度力を込める。多分、この数瞬間の出来事で、何もかもがバレたはずだ。「物分かりの良い異性の友人」役は、これですべておじゃん。失うか、得るかしか残らない。腕の中の彼女は僕の胸に手を置いて、俯いたままでいる。だけど、僕を拒むほどの強さも感じない。   「ねえ、…」     後先なんて考えずに、そっと囁いてみる。この次に、どんな言葉を続ければいいのかなんてわからない。だけどもう、賽は投げられてしまった。彼女は僕を拒まないまま、黙って俯いている。その眼差しが次に僕を捉える時、この身の内に燃えるものを彼女は認めてくれるのだろうか?或いは冷然と、花を散らすだろうか。春の冷たい雨のように。     そのしめやかな花弁のような目蓋が、次に開く時。まるで永遠のようなこの刹那。